地元人になれない子

初めて母の実家の鹿児島に連れて行ってもらったのは、4年生の夏休み。父と母はお互い近くの村に住む知り合いで、双方の親が結婚を勧めたと聞きました。お互いにいいなと思っていたところだったので喜んで結婚したそうです。両親の時代はお見合いが主流だったのではないかしら。本人同士も親同士も相思相愛の結婚で、よかったーと子供心に思ってました。

神話に出てきそうな大きな山に、精霊が宿っていそうな大きな岩が点々と転がっていて、道ゆく人を見守っているような感じ。ガタガタ道を通って山を越えたその麓の村に母の実家がありました。初めて会う叔父さんは、イノシシの狩人をしていて、猟犬もいました。お家は藁葺き屋根で、林の斜面に建っていました。私たちが到着した日、叔父さんは庭のニワトリを散弾銃で撃って、手早く羽を毟り取り、白い羽が庭中に舞いました。いきなりショッキングなシーンです。その鶏は内臓ごと味噌煮込みになって食卓にあがりました。頑張って食べようとしたけど、お箸に絡まる青黒い腸をみて、ギブアップです。


お風呂は鉄でできており、釜の形をしていました。薪をくべて火を焚くやつ。テレビで見たことがある。木の板にのっかって湯船に浸かる。アメイジング!4人のイトコと初めて対面しました。おばあちゃんもいました。太平洋戦争で亡くなった軍人さんの写真が二つ壁に掛かっていました。一つはお爺ちゃん? もう一つは、若い。長男? 鹿児島県は、特攻隊の基地があったところ。大人になって渡米した私が一度だけ実家の両親に会いに行った時、特攻基地があった知覧町という街に連れて行ってもらうのでした。展示されていた本物のゼロ戦は、あまりに小さく華奢でした。特攻してゆく若者を祝福する仲間からの寄せ書きや、お国の為に死ねる栄誉を讃える母からの手紙などの展示がありました。思い出すたびに涙腺が崩れそうになります。


叔父さん夫婦と私の両親が話す言葉は鹿児島弁になっていて、私には外国語のように聞こえました。牛小屋に行ってみると、大きい牛と子牛がいました。私が着ていた赤いジャケットが気に入らなかったのか、子牛は興奮した様子でしたが、ジャケットを脱いで行くと慣れてくれて、毎日撫で撫でしに行くようになりました。日々食卓に上がるものは口に合わなかったけど、週に一回、町のスーパーマーケットから軽トラックで食材を売りにくることを知って、そこで大量におやつを買って食いつなぎました。そうやって夏休み全部をその家で過ごしました。叔父さんの家を発つ時は、子牛の小さな角が少し伸びたように見えました。

両親が喋る言葉って変だなーと日頃から思っていたけど、こう言う訳だったんだと、やっと分かりました。両親は結婚してすぐ鹿児島を出て、大阪の「だんじり祭り」で知られる街に定住し、そこで私は育ちました。その祭りは街の人たちが一つになれる年一回の熱いイベントで、これが生きがいの人がたくさんいます。祭りが近づくと人々はだんだんハイパーになってゆきます。学校では、授業の合間の休み時間に男の子たちがそこら中の机や棚を叩いて練習します。休み時間いっぱいを使ってみんなで気分を盛り上げてゆくのです。

祭りの日は学校が休みになります。喧嘩祭りとも言われており、だんじりが建物にぶつかって倒壊したり、死亡事故が起きたり。でも祭りの為なら仕方ないといった風潮でした。この歴史は何百年か続いているようです。私も他の子供たちと一緒にだんじりを引きました。


6年生になって、また祭りの季節になった頃、クラスの男の子から手紙が送られてきて「僕のだんじりの姿を見に来てほしい」と書かれてあり、ハッピにねじりはちまき姿のその子写真が同封されていました。去年撮った写真みたい。祭りに燃える熱い男の子の姿を見てカッコいいと思う感性は私には欠けていましたが、その手紙の字の綺麗さに感動しました。どの女の子よりも綺麗な字。大人チックで、みやびな感じさえする。女の子同士での交換日記は横書きノートなのに、その男の子は無地の便箋で縦書き。筆圧の加減や全体のバランスが絶妙に美しく、渋い。そんなセンスを持ち合わせるこの男の子に強い尊敬の念を抱きました。その後も何度か手紙の交換をしたように思いますが、内容は思い出せない。ひたすらその子の字をなぞって練習したのを覚えています。


結局、だんじり祭りのカッコ良さが分からないまま中学生になった私は、1年生を終えた春休みに両親に連れられて鹿児島の中学に転校し、高校卒業までの5年間を鹿児島の子として過ごします。

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