秦氏のキリスト教

Updated: Apr 2


早稲田大学の教授で佐伯吉郎という方がいました。東京分理大学の学長でもありました。この方は景教の研究で第一人者で、世界では景教の博士と呼ばれています。彼は英語で「ネストリアンズ」という本を書いていますが、ネストリアンズは景教徒のことです。日本に来た原始キリスト教徒は、記録残っているものでは、AD 199 年頃であったと佐伯吉郎は書いています。

1世紀頃は西アジアも中央アジアも、ほとんどの国がキリスト教国になっていました。


日本の古い書物に「新撰姓氏録」という古文書があります。


これによると、神武天皇から14代目の仲哀天皇(ちゅうあい)の時代に、弓月の国の王である巧満(こうまん)という人が家来をつれて日本を訪問したと書かれています。


これがAD199年でした。


現在の考古学者の説では4世紀後半頃とされています。200年ほどずれがありますが、どちらにしても仏教より前に入っています。弓月は中央アジアのキリスト教国のひとつです。(今のキルギス、カザフスタンあたり?)


そして第15代応神天皇の時代に、巧満の息子(王子)が18,670人の民を連れて日本に移住して来たことが記録されています。王子の父(巧満)が日本を訪問した際に天皇に会い、話を取り付けたのだと思います。仲哀天皇は、弓月の国の文化を高く評価し、また、迫害を受けているこの民族を助けたい思ったでしょう。


移動の中に沈没した船もあった事でしょうが、それでも2万人近い人が日本に移住しました。民族ごとの移動です。これが秦氏と呼ばれる人たちです。彼らは私たちの文化に大きな影響を与え、私たちの血にもなっています。今でも秦のままの人たちもいますが、多くは名前を変えています。「羽田」とか、「幡」とかの字を使うようになったりもしています。


秦氏のキリスト教は、東回りのキリスト教で、後に西洋から入ってくるキリスト教とは少し違います。この秦氏は、養蚕や絹織物の仕事に携わったそうです。シルクロードを通って絹を運んだ人たちは、ほとんどがユダヤ人か、原始キリスト教徒だそうです。秦氏は中国で絹織物の技術を学び、日本に持ち込みました。


カトリックは、日本にキリスト教を広めたのは自分たちだと思っているので、原始キリスト教徒が日本にいたことを認めたがらないのですが、同じカトリックでも、マリオ・マルガという神父は日本のことを研究し、歴史学の教授たちを前に、実はザビエルがくる1,000年以上前にキリスト教は日本に入っていたことを発表しましあ。


秦氏の中の有力者で、秦河勝という人がいました。600年代に、聖徳太子のブレインだった人です。太秦に建っている広隆寺(消失再建前は「かどの」という所にあった)。マリオ・マリガ先生は、これや周囲の風習を見て、これは古代キリスト教であると言いました。再建後はお寺になっていますが、オリジナルは少し違います。江戸時代の学者の太田錦城がオリジナルの広隆寺を見た時の記録が残っていますが、これは仏教の寺ではなく景教の寺であると言っています。


広隆寺の弥勒菩薩像は3本指のムードラになっています。これは仏像のムードラとは違います。中央アジアに景教の大司教を描いたの壁画がありますが、同じ手の形をしています景教徒たちはシンボルを大切にしました。


これは三位一体を表すためのシンポルではないかと、研究者の間では言われています。この洞窟壁画は、今はロンドンの英国博物館で見れます。


ちなみにミロク4世紀頃にインドで生まれた信仰です。釈迦は過去の救い主で、ミロクとは未来の救い主です。釈迦が生きた時から56億7千万年の未来に地球に降臨すると言われています、


未来の救い主はマイトーレーヤと呼ばれたのが、エリザベス・ゴードン女史などの学者は、マイトレーヤが後にミレフと呼ばれるようになり、ミロクになったと語っています。



マイトレーヤミロクであり、ヘブル語でメシア、ギリシャ語でキリストのことだそうです。


おそらく、仏教徒の間で、臨のキリスト教の教えに対抗するために作られたれた思想ではないかと考えられています。





ダビデ”太闢”竪琴のことを景教徒は機織管絃」と書きました。


秦氏がやっていた織物はハタ織りと呼ばれるようになり、「機」の漢字が当てられたと学者が言っています。


京都の太秦”ウズマサ” はアラム語の イエッシュ・マッシャ がもとになっているようです。救い主イエスのことのようです。



コノシマ神社にある蚕の社は、水を貯めた池の中に、三本柱の鳥居があります。真ん中に石を積んでいます。


みそぎの場ですが、ここでバプテスマも行われただろうと学者は言います。


明治時代に再建されたものですが、昔の資料にもとづいて造り直されたそうです。


ここはアメノミナカヌシの神を祭っています。神々の頂点の神、最初の神です。


これは一神教の神のことではないかと思われています。

全国の神社の半分くらいは八幡神社です。日本で一番多いのです。今は八幡”はちまん”宮と呼ばれたりしますが、本来はヤハタ宮だと宮司たちは言っています。


8世紀頃、九州北部の宇佐で、沢山のヤハタ宮がありあました。中国の記録では原始ハヤタ信仰と書いています。


ユダヤはイェフダーと発音し、これがヤハタになったのではないかと言われています。



1200年前に平安京を造ったのは秦氏です。秦氏の土木工事技術は、当時の日本では第一級でた。中国で万里の頂上を築く仕事に駆り出された多くのアジア人の中に秦氏がいたのです。その技術は日本でも発揮され、巨大古墳を築く時にも使われました。


大阪の淀川はしょっちゅう氾濫して農地が荒らされていましたが、そこに堤防を築いて治水工事を行ったのが秦氏なんです。京都の賀茂川も同じです。いまは堤防のおかげでもう氾濫はおこりません。


秦氏の貢献は大きいです。平安京は、エル・サレムの日本語です。


平安京を建てた後、京都で祭りをするようになります。八坂神社の祇園祭です。


7月の17日の行事が一番豪華です。

これはノアの箱舟がアララト山に留まった日です。(創世記8章)

祇園祭は、伝染病が起こらないようにという悲願から始まりました。同じことが、イスラエル王国を建国したソロモン王もしています。秦氏の祇園祭は、ソロモンが作ったイスラエルの祭りと同じにっていで、そっくりに行いました。


秦氏は日本の土地を愛し、自分たちのエルサレムとして永住しました。


Source: YouTube「古代東方キリスト教と日本」2

久保有政 先生